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チベットの地図を見ると周囲に3つの大国が存在することがわかる。東に中国本土、南にインド、そして直接国境を接してはいないが、人口希薄な新疆ウィグル地区を挟んで北にロシアだ。

あまり知られていないが、20世紀初頭、ユーラシア大陸の覇権をめぐる大国の思惑がチベットで激突、小さな熱い戦争になったことがある。現代のチベット問題の重要な背景にもなるので簡単に紹介しておこう。

19世紀末からイギリスとロシアはユーラシア大陸全土を舞台にグレート・ゲームと呼ばれる秘密の冷戦を繰り広げていた。ロシアは不凍港を求めて朝鮮半島からトルコに至るあらゆる場所で南進を試み、英国はこれを帝国の生命線、すなわちイギリス-インド通商路への一大脅威とみていた。

チベットは1788年のネパールの侵攻を機に清朝の保護を要請して属国となったが、19世紀末に入ると清朝の弱体化によってその保護も有名無実化し、チベットは事実上域外から隔絶していた。

この頃、アグヴァン・ドルジェフというバイカル湖の近くで生まれたブリヤート・モンゴル族のロシア人がラサでチベット仏教を学んでダライラマ13世の学友になる。その後ドルジェフはサンクト・ペテルブルグに赴いて宮廷に出入り、有力者と近づきになったようだ。1896年にドルジェフはニコライ2世からチベットへのある種の使節に任命される。

ドルジェフはラサの宮廷で「ロシアこそチベット仏教でいう北方の楽園シャンバラでありツァーは白タラ菩薩の化身だ」として友好関係を結ぶことを説いた。ドルジェフの運動については当時チベットに滞在していた河口慧海の「Three Years in Tibet」にも報告されているという。(Wikipediaによる。ソースは未見)

ドルジェフのラサにおける活動の情報を入手したインド総督カーゾン男爵〔注 *〕 はチベットにおけるロシアの影響力の増大はインドの安全保障に対する放置できない危険と判断、インド高等文官フランシス・ヤングハズバンドに実力行使を含む包括的なチベット対策を命じた。

1903年12月に数十名のイギリス人将校、下士官が指導するインド兵約3000と7000のシェルパ、合計1万のヤングハズバンド遠征隊がシッキムで結成された。1904年3月、ラサ南方のグル付近でヤングハズバンド遠征隊とチベット軍主力との会戦が起きる。チベット軍は、3千人のうち700人が戦死して壊滅的打撃を受けて後退した。遠征隊はその後ギャンツェ城を攻略し、8月にはラサに入城する。ダライラマ13世以下政権幹部はこのときすでに逃亡しており、ヤングハズバンドは清朝代表と会談、これ以降チベット は実質的に英国・清朝の共同保護下に置かれる。

ちなみにグルの会戦が当時の最新兵器マキシム機関銃が実戦で大規模に使用されたもっとも早いの例の一つだというのが興味深い。(この直後に日露戦争が起き、機関銃が両軍に何万単位で死者を出して世界に衝撃を与えた。)

チベットの地図

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〔注 *〕 インド総督当時の爵位は「ケドルストンのカーゾン男爵 Lord Curzon of Kedlesoton」だった。後外務大臣などを歴任、初代・ケドルストンのカーゾン侯爵に叙せられる。

効果的に配置された機関銃は文字通り「大量破壊兵器」となる。第一次大戦初期のソンム会戦では1日で2万人の英軍兵士がマキシム機関銃によって殺された。第一次大戦を通じて両陣営で機関銃による戦死者は550万と推定されている。このほとんどがハイラム・マキシムの設計した機関銃とそのコピー(英軍のヴィッカースなど)だった。単一兵器としては空前絶後の数字といえるだろう。


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