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070403_itchigaya

上の写真は2007年に拙著ソーシャル・ウェブ入門が出版された日に技術評論社に行ったときのもの。はやいものでもう満三年もっている。今年はいやなときに雨風が強くて、どうも桜をろくに見ないで終ってしまいそうだ。于武陵の五言絶句、「花発多風雨」を「花に嵐のたとえもあるぞ」と訳したのは井伏鱒二だが、この翻訳は天才という他ない。

しかしこうした絶妙の訳ができたのはわれわれが2000年(かそれ以上)にわたって中国文化の影響を深く受けてきからで、文化背景がまったく異なればなかなかこうはいかない。同じ桜といっても、われわれの桜とアメリカ人のcherryとでは、たとえ植物分類学的に同一であっても、まったく異なる文化的文脈をもっている。一般のアメリカ人がcherryから「散り際の潔さ」やなどを感じることはありえない。これが抽象的概念になると、実体として目に見える対象がないだけに、文脈の差異はいっそうやっかいなものになる。

英語のソサエティーを最初に「社会」と訳したのは福沢諭吉だとされる(異説もある)。以後ソーシャルは社会的、ソシオロジーは社会学、ソーシャリズムは社会主義、のように訳されてきた。しかし「社会ネットワーク」というのは社会学の一分野の理論で、TwitterやFacebookのようなインターネット・サービスはソーシャル・ネットワーク、ソーシャル・メディアなど音訳されるのが普通だ。

実はソーシャルという(英語を始めとする西欧語の)単語には非常に広い意味があり、「社会学」の対象になるような「社会」という意味はその一部に過ぎない。

socialの語源は「後に従う」という意味のラテン語、sequi、さらに印欧祖語のsekw-語根に遡る(研究社・大英和)。ちなみに、socialとsequece(連続、並び順、)、consequence(結果、結論)などは従兄弟にあたる単語だ。sequi フォローする→フォローする相手→仲間、同士→仲間の集まり→社会、のように語義が発展してきた。societyが日本語で言う「社会」の意味を持つようになったのは17世紀頃で、比較的新しい。

つまりソーシャルという言葉を「メンバーが互いにフォローしあうネットワーク」に対して使うことは、英語(を始めとする印欧語)世界の文脈では言葉の根源的な意味に立ち戻っていることになる。「メンバーがフォローしあうネットワーク」を「社会ネットワーク」と訳すことは(仮に「社会ネットワーク理論」などの先住民がいなかったとしても)、日本語の狭い「社会」の意味によってsocialの持つ語義に狭い枠をはめることになり、適切な訳とはいえないことになる。

これに関連して、日経コンピュータの谷島宣之編集長が「「言葉のインフレ」は経済のそれよりはるかに恐ろしい 専門家同士でも分かり合えないITの英略語」という記事でvirtualという単語に「仮想」という訳語を宛てたことをIBMの当事者が反省している例を挙げていた。

谷島さんは頭文字語がお嫌いで、その理由は「分かりにくいからだ。経営者がITを敬遠する理由の1つにこの英略語がある」と書いている。頭文字語の乱用がコミュニケーションをさまたげるのは当然で、まったく同感だが、これもよく批判されるカタカナ語については若干保留したい気がする。

というのは原語をそれらしい日本語に訳すと「本当は見当違いなのにわかった気にさせてしまう」という逆の弊害も出てくるからだ。virtualとは、virtue「美徳」などと同根で「優れた、実効ある」という意味だった。つまりバーチャルメモリとは「実質的にメモリとして機能する機能」という意味だったわけだ。たしかに訳しにくい。しかしこうした日本語にしにくい単語は「仮想」などと無理やり間違った方向に訳さずカタカナで「バーチャル」のまましておいた方が害は少なかったと思う。こういう例は意外に多いように思う。

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